要するに元禄2年(1689年)の『信教自由令』、『権利章典』成立に至るプロセスは、20万に達する近代的常備軍を擁してヨーロッパに突出するルイ十四世治下の軍事大国フランスに対して、オランダ人ウィリアム三世と「オランダ国民」が、決死の覚悟で打った博打が成功した結果でもあった。
九州よりは大きく北海道よりは小さな祖国オランダの独立を全うするには、イギリスを強制的にでも抱き込んで、「英蘭軍事同盟」を結成する以外に道はなかった、と言えよう。
それを支えたのが、40年前の国王チャールズ一世の斬首、
そして王政復古後、護国卿クロムウェルの骨を、歴代国王も眠るウェストミンスター寺院の墓から引きずり出して、その頭蓋骨を晒す、
そういう「血で血を洗う」ような「凄惨な場面」を繰り返したくない、
という多くのイギリス貴族や「イギリス国民」の思いであった。
その意を挺し国王ジェームズ二世に見切りをつけ、ウィリアム三世の「根回し(調略)」に応じたシュリューズベリー伯爵ら7名のイングランド貴族から、オランダ連邦共和国総督オレンジ公ウィリアム三世に差し出された「イングランド侵攻要請の連判状」が、オランダ軍によるイングランド侵攻の大きな弾みとなったのである。
蛇足ながら付言すると、7名の貴族による「招請状」の末尾にはそれぞれの貴族の暗号(番号)が記入されていた。因みに第12代シュリューズベリー伯チャールズ・タルボットのそれは25であり、密書を届けたのは一船員に身をやつしてオランダに渡ったイングランド海軍のハーバート提督であった。この功によってか、ハーバート提督はイングランド国王(兼オランダ連邦共和国総督)となったウィリアム三世の下でトリントン伯に叙され、海軍卿に任命された。
丁度100年前イングランドを襲ったスペイン無敵艦隊(アルマダ)の2倍の勢力(500隻の艦船と2万を超える陸軍)を擁して、
「イングランドの自由とプロテスタントの信仰」、
「我、貫徹せん」
とフランス語で書かれたウィリアム三世の標旗を旗艦の甲板に掲げたオランダ無敵艦隊は、1688年11月5日デボンシャーのトーベイに強制上陸、その後1ヶ月余で、オランダ進駐軍は、ただ呆然として為すすべも無いイギリス臣民を威圧、鎮定した。叔父であり、岳父でもあるイングランド国王ジェームズ二世を討ってでも、「英蘭軍事同盟」を結成して「ヨーロッパの勢力均衡」を図り、戦争を生きがいとするルイ十四世の野望を阻止しようとしたオレンジ公ウィリアム三世の執念、「鉄の意志」が実ったと言えよう。
あの時代に「王国」ではなくオランダ「連邦共和国」という国があり、しかもその国が世界最高の繁栄を享受し、「世界貿易を牛耳っていた国」であったことを忘れてはならない。長崎「出島」の存在などはオランダにとって何ら大勢に影響ないことであり、世界の大勢とは何の関係もない絶海の小島日本では、この前年(貞享4年)に五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を発布し、この年、柳沢吉保が側用人に登用され、年号が「元禄」となった。南洋日本人町が消滅したのはこの頃のことである。
話を元に戻すと、この「オランダ革命」あるいは「オレンジ家の変」とでも称さるべき「事変」の結果成立した『権利章典』においては、
平時において国王が議会の承認なしに常備軍を組織・維持することは
違法である
と定められたが、王政(君主制)そのもの、あるいは君主が「統帥権」を行使することを全面的に否定したわけではなかった。そして、その「統帥権」の問題が解決されたのは、170年後の第一次パーマストン内閣、あるいは正式にはその後の第一次グラッドストーン内閣の下(1868年〜1874年)で「軍事改革」が行われ、軍最高司令官は陸軍大臣に従属することが決定された時であった。
この時、陸軍大臣カードウェルが提唱した6年という短期兵役制が確立し、イギリス軍は十分な予備兵力を確保できるようにはなった。しかしながら、「統帥権」に手をかけて、国民の税負担を軽減し軍事予算の拡大を抑えるはずの議会は、その後の歴史においては軍事予算の増大、軍備の拡大を許し続けるという皮肉なことになったのである。
「統帥権」は陸軍大臣にあり、第一次大戦下、ウィンストン・チャーチルは陸軍大臣キッチナー元帥の部下としての海軍大臣に登用されたのである。
蛇足ながら、キッチナー元帥の来日については当コーナー(2007年11月18日付)で言及しました。
170年あるいは200年もかかった「統帥権」を巡る議会と国王(君主)との戦いの帰趨を決したのは、「イギリスの新聞」であり、ヴィクトリア女王時代のその経緯は、後日稿を改めて言及したいところです。
イギリスにおける君主と議会との絶え間ない確執、
そしてそこに割って入り、双方との絡み合い、睨み合いのなかで「世論形成」を謀る(計る)「イギリスの新聞」が、
ウィリアム三世の時代(元禄時代)や、
パーマストン内閣の時代(嘉永、安政時代)に果した役割には、
人類史に輝く目覚ましいものがあります。
参考文献